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森本六爾と私:8年を超える大学生活に絡めて

野原の続くのどかな唐古・鍵遺跡 パーソナルブログ
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反骨の考古学者 ROKUJI

2019年7月から8月にかけて、両親や知人たちから、NHKのドキュメンタリー番組(ETV特集)にて『反骨の考古学者 ROKUJI』という森本六爾のドラマが放映された事実を知りました。

今年は私自身が2冊目の単著本を刊行することもあり、また、初めて放映されたのが7月6日(土曜日)、私の誕生日の1日前だったこともあり、六爾を取りあげたドラマが放映されることに少し血が騒ぎました。

森本六爾は私の父方祖父の兄にあたる奈良県出身の考古学者です。

野原の続くのどかな唐古・鍵遺跡

森本六爾が通った唐古・鍵遺跡。奈良県磯城郡田原本町大字唐古。2019年8月11日、蔡蕾(atelier leilei)撮影。

或る「小倉日記」伝」~「断碑」

これまで一番有名になったのは松本清張の短編小説集『或る「小倉日記」伝』でしょう。同書は、近代日本で異業をなしたアウトローたちの短編集で、森鴎外を題材にした同名小説「或る「小倉日記」伝」が一番有名で、森本六爾は「断碑」のなかで木村卓治として登場します。

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森本六爾の友人や弟子たち

よく知られるように、森本六爾は大学に通っていない在野の考古学者です。それでも友人や弟子たちには恵まれていた方だと思います。

たとえば長野県の考古学者・郷土史家の藤森栄一。彼は六爾の伝記を2冊ほど書いています。

姫路市・播磨地方の郷土史家だった浅田芳朗もまた、1920年代に六爾に師事し、伝記を残しています。

また、京都大学名誉教授の小林行雄は1920年代に六爾と考古学の議論をいろいろしたと聞いています。

浅田芳朗という人物

NHKドラマ『反骨の考古学者 ROKUJI』が放映された頃、私は今月に刊行する著書の校正に取り組んでいました。著書のテーマは、兵庫県姫路市で20世紀前半の約半世紀にわたり裁縫業を営んでいた藤本仕立店の経営史です。

昨年に原稿を完成させて出版社へ提出するまで、私は、戦時期姫路の衣服産業(アパレル産業)が材料生地の配給統制をくらって上手に機能しなかった理由を探っていました。

その理由の一つに、1942年に姫路市内に突如として出現した第二海軍衣糧廠姫路本廠が、近隣工場との提携をせずに、従来のコネクションだけで運営した点が大きかったと考えました。

第二海軍衣糧廠姫路本廠の唐突な出現は軍部系統の動向であって、似ているようで違う通産省の配給統制の経済に属する動向ではなかったのです。

そこまで分かったとき、確か2018年だったと思います。第二海軍衣糧廠または姫路本廠の存在が気になってきました。そして貴重本を取り寄せ、一気に読んで要約を作りました。今月刊行の著書で補論3として反映させています。

この貴重本は浅田芳朗という姫路本廠元勤務者の書いたものです。そこで気になってきたのが浅田芳朗という人物そのものでした。

インターネットで浅田芳朗について調べていると、姫路市埋蔵文化財センターが開催した展示会「考古学―播磨の先人 浅田芳朗」(2010年12月12日~翌2011年4月10日)の存在を知りました。そのチラシはPDFファイルでダウンロードできるので、慌ててパソコンで読みました。そのチラシに浅田氏が森本六爾の弟子と明記されていたのです。

2018年、これが歴史研究の醍醐味かと身震いしました。

それから1年、私の本の原稿が校正用紙となってきた段階でハライチ岩井と伊藤沙莉が共演した『反骨の考古学者 ROKUJI』のドラマを知ることになったわけです。

NHKドキュメンタリー - ETV特集「反骨の考古学者 ROKUJI」
反骨の考古学者 ROKUJI

森本六爾と私

次の写真は森本六爾(私の大叔父)や森本和壽(私の父方祖父)たちがある機会に集まった家族や手伝いさん・女中さんの集合写真です。

ふだんは住み込み女中さんたちも含めて15人ほどの家族だったとか…。私の祖父母は同居していませんでした。

5人以外にはボカシを入れました。ボカシの入っていない5人は左から、森本六爾(赤ちゃんを抱える女中さんの右隣り)、その妻ミツギ夫人、中央が六爾・和壽らの父である森本猶蔵、そして森本和壽(私の父方祖父)、その妻静江(私の父方祖母、のち岩本静江)。

森本家と手伝いさん・女中さんたちの集合写真。ボカシの入れていない5名は、左から森本六爾(長男)・妻のミツギ、森本猶蔵(父)、森本和壽(次男)、妻の静江。

森本家と手伝いさん・女中さんたちの集合写真。ボカシの入れていない5名は、左から森本六爾(長男)・妻のミツギ、森本猶蔵(父)、森本和壽(次男)、妻の静江。

ちなみに、静江という名前は、松本清張の「断碑」にて木村卓治(森本六爾のモデル)の妻の名前として出てきます。松本清張の調査力に脱帽です。

私の祖父母と森本六爾の関係

さて、私は、奈良県橿原市に生まれ育ち、小さい頃から両親が共働きでした。

私の勉強を見てきたのは、主に1907年生まれの祖母静江でした。祖母は私が17歳のときに亡くなりました。

祖母静江は、よく万葉集に出てくる天香具山の麓、南浦町元地主の岩本を実家とし、橿原市と隣接する桜井市元地主の森本家次男、和壽(壽敏)と結婚しました。和壽は私にとって父方祖父にあたる人物です。後に静江と和壽は離婚しているので、静江の姓である岩本を私は生まれた時から名乗ってきました。

森本六爾は森本家の長男でした。六爾、和壽、以下約10人と続く、近代家族の一典型、ビッグ・ファミリーでした。

森本家は戦前に地主でしたが、戦後の農地改革でサラリーマン家庭へ転換しました。六爾は速くに夭折しましたが、和壽らも含め多くの息子たちが戦前・戦後を通じて、働くことを知りませんでした。

ドラマではどのように写されていたのか、私は自分の本が刊行されるまでに見ないと決めているので、まだ知りませんが、働かずに田んぼばかりを掘って働かないという意味では、六爾も例外ではありません。

私の祖父 和壽

私の父方祖父である和壽、つまり六爾の弟は、将棋と競輪で家と裁縫工場を潰し、やがて静江と離婚します。

私は小学生の頃から、祖母静江から「お祖父ちゃん(和壽)になるな、六爾になれ!」と言われ続けてきました。

幼い頃から私は六爾が立派な学者だったらしいことは分かっていましたが、具体像は20歳を過ぎる頃まで知りませんでした。祖父とは会ったことがないまま、私の12歳くらいの時(1982年頃)に他界しました。1936年に亡くなった六爾には、もちろん会ってません。

やや話がズレますが、ある日、私が小学校から帰宅したとき、和壽が亡くなった連絡を静江が自分の長男(私の伯父)から電話で受けていました。「お祖父ちゃん(和壽)になるな」と言っていた祖母静江は拳を握りながら涙を流していました。

この光景は今でも思い出します。

偶然、私が小学校から帰宅した玄関口での出来事。日本帝国の強烈な軍国教育を受けた祖母が泣く姿は、後にも先にも見たことがありません。

あの晩、食事をしながら、私の父が自分の母(静江)に向って「泣くな、博打しまくってお前を捨てた男やろ」と諭したことも鮮明に覚えています。私が12歳くらいの時ですから、私には踏み込めない領域があるという理解しかできませんでした。

和壽はともかく、六爾に話を戻しましょう。

森本六爾の奇抜な人生

森本六爾は大学へ行っていないので、

  • アマチュア考古学者と言われる悲哀
  • 32歳で結核による死亡という悲哀
  • 日本史教科書にほぼ載ったことが無い悲哀

こういう事実が親族一同に浸透してきました。

1920年代後半頃の森本六爾。弥生原始農耕説で広く知られる考古学者です。

1920年代後半頃の森本六爾

私の父方祖父(和壽)は分家、亜流の位置にあったにもかかわらず、六爾の功績・事実の言い伝えは、岩本家でも昔からありました。

20代になってから私は、祖父(和壽)の兄だった六爾について調べはじめました。調べれば調べるほど、どんどん距離が遠のくばかりでした。最初の著書は20代半ば。結核のために32歳で亡くなるまで、少なくとも論文100本を書いていたと記憶しています。

六爾は一時期、パリの考古学に憧れ、1920年代にパリへ私費留学しました。私費の出所は小学校教師をしていた妻ミツギの給料でした。

ところが、なんと留学先のパリで六爾は作家の林芙美子と恋に陥ります。別れてからは「別れても毎朝アパートに花束を届けにくるヘビのようにしつこい男」と林のパリ日記には書かれています。

林との恋についてはこちらに詳しいです。

そんな有様で、留学での研究成果は少なかったと、いくつかの伝記は記してきました。

8年を超える大学生活

「六爾になれ!」の縛りと私の大学時代

このような事まで知った私は勉強と恋と、どちらで六爾をめざすべきか迷いはじめました。私の通った大阪府立大学、留年の始まりです…。

大阪府立大学経済学部に在籍した8年間の前半4年間、私は自分の人生に悩んだり自暴自棄になったりしました。この時期は、ほとんど大学に通わず、学習塾や家庭教師のアルバイトで得た給料をほぼ全て図書購入に充てて、読書をしました。

「六爾になれ!」という祖母の言葉が強い圧力となり、毎月10万円は図書購入に充てると決め、教育関係のアルバイトを増やすという悪循環が続きました。

4年生になっても就職活動をしない私を両親が心配したため、秋頃に正直に私の思いを伝え、話しあったところ「せっかく入学したのだから、まずは卒業を目指し、大学院進学はその間に考えれば良い」と肯定的に理解してもらえるようになりました。

そして、後半の4年間に頑張って通学するよう決意しました。

5年生・6年生の時は通学に馴染めず、思ったように単位は取れませんでした。7年生・ 8年生になると、多くの単位を取得しました。8年生の夏、大阪府立大学経済学部の大学院入試も合格し、ようやく自分でも納得のいく人生を歩めると確信しました。

しかし、必修である一般教養の1科目を落とし、在学期間満了のため満期退学となりました。

このような経緯でも、私は大学院進学に執着しました。そこで、大阪府立大学の先生方や職員方々に相談した結果、学位授与機構(現在は「独立行政法人 大学評価・学位授与機構」)からの経済学学士取得を目指すのが無難という道を教えてもらいました。

そのために、授与機構の指摘した不足科目を埋めるために、法政大学の通信教育課程の利用を考えました。授与機構が不足を指摘したのは、私が府立大学で落とした教養科目ではなく、なんと府立大学では足りていた経済学関係の2科目でした。

組織によって想定する教育カリキュラムは多少ずれることも知りました。

学士取得までの形式的な経緯

学位授与機構の役割ですが、いわゆる大検(中卒者の大学入学資格検定)の大学院版と考えると無難です。

学士を持っていない者に対し、当機構が定める所定科目・単位数を満たした上で検定試験に合格すれば、学士を発行するというものです。

具体的な学生像としては、飛び級で大学院へ行った大学生(大卒にならない)、または短大卒で就職しながら通信教育で専門課程の単位数を多く取得した学生(または社会人)等が念頭に置かれます。

お恥ずかしながら、当時、当機構の方に伺いましたところ、私のように、特定の大学に8年間も在籍したうえで退学し、さらに学士を取得しようとした事例は極めて珍しいとのことでした。

先ほど触れたとおり、大阪府立大学経済学部で取得した科目と単位について、学位授与機構に審査をお願いしました。当機構の基準では一般教養科目はクリアしており、逆に専門科目(経済学)が2科目足らないと指摘されました。

そのため、学習塾で勤務する傍らで、法政大学の通信教育課程(科目等履修生)に在籍し、専門の2科目を習得しました。通信教育での微かな思い出は、工業論という科目のレポート指導で、「抜群によくまとめていて驚く」と添削されてきたことです。また、定期試験には当時近所だった浪速短期大学(2019年9月現在・大阪芸術大学短期大学部)に自転車でえっちらほっちらとこいで行ったことです。

とにかく、1999年に2科目の定期試験に合格し、同1999年12月に行なわれた学位授与機構の検定試験を受験し合格しました。これによって当機構から学士(経済学)を発行していただきました。

同年度(1999年度)8月に行なわれた大阪市立大学大学院経済学研究科修士課程も合格していましたから、そんなこんなで、2000年4月の大阪市大修士課程入学を許可して頂くにいたります。

まとめとメッセージ

「和壽になるな、六爾になれ!」という祖母の期待は、遺言と錯覚したまま私の心に残り続けてきました。

今月刊行する本のなかで、浅田芳朗つながりで森本六爾にも触れました。史実として触れることで、私は六爾から解放されたと思うようになりました。

最後にみなさんに伝えたいのは、人に期待をするということは、時に人を縛り、路頭に迷わせることになるということです。

このサイト「遊民大学」のポリシーに「我思わぬ 故に我なし」、つまり、自我を捨て自信も捨てることで新天地を開いてほしいと書いているのは、このページに書いたような経緯も反映しています。

最後に、この記事の続編のようなものとして、なんとか無事に入学できた大阪市大での大学院生活についても書いています。こちらをお読みください。

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