今日は出勤してカフェ関係の本を図書館から借りてきました。妻や同志社大学の学生たちとカフェ巡りに行きまくってきましたが、京都市の四条だけでもカフェは全部制覇できないほど乱立しています。大阪も然り。
そこで、カフェの歴史や現状を簡単に把握しようと思って、今日は図書館でまとめて借りました。このページでは、借りたうちの1冊、山納洋「つながるカフェ:コミュニティの〈場〉をつくる方法」を取り上げ、昔の喫茶店や今のカフェを簡単に述べて、歴史的なノスタルジーに少しハマってみます。借りた本は写真のとおりです。

出勤して図書館から借りてきたカフェ関係の本。大阪市立大学にて、2019年3月5日。
カフェと喫茶店:後者全盛の時代に生まれた悲しさ
インターネットでカフェの現状を調べていると、ふとカフェと喫茶店には法的な違いがあることを知りした。「食品衛生法」や「食品衛生法施行令」第35条を根拠に、飲食店営業(カフェ)と喫茶店営業(喫茶店)とに分けられます。ただし、慣用的な違いはありません。
次のページは「食品衛生法施行令」第35条を中心に分かりやすく違いを記しているのでご参照ください。
上のページや今日借りてきた本などをもとに簡単にまとめると次の違いがあります。
- カフェ…飲食店営業に区分され、調理できる。アルコール類の飲料品を提供できる。
- 喫茶店…喫茶店営業に区分され、加熱できる。アルコール類の飲料品を提供できない。
日本では1990年代まで喫茶店が流行っていて、カフェが勢いをもちはじめたのは2000年代になってからのことです。私が20代の青春時代を過ごしたのは1990年代…。今ほどコーヒーにこだわった店は少なく、料理もレンジでチンばかりでした。ですから、生まれた時代に大損した気分です。
山納洋「つながるカフェ:コミュニティの〈場〉をつくる方法」
この本からパラパラめくりはじめました。著者は大学卒業前後にカフェで知り合った人たちと楽しく過ごし、音楽や文学などを客から教えてもらったそうです。その詳しいエピソードが前半に書かれています。卒業後は大阪ガスに勤め、同社の推進する地域活性化のプロジェクトを担っていきます。その実践が後半に記されています。
したがって、著者にとってカフェは学ぶ場から創出する場へと変わっています。場の大切さが説得的に伝わってくるのは著者の若い頃のエピソードの方です。
この30年でシニアの立場が変わった
著者はアート・教育・出会いなど色んな使い道のあるカフェを作ろうと今もプロジェクトを色々立ち上げています。たとえばシニア向けカフェ、アート・カフェなどなど。でもちょっと、あまりにも今風で展望がない…。
本書に限らず最近の日本の惨状を思い起こすと、高齢者向けカフェの存在自体が惨状だと感じます。昔の喫茶店やカフェでは、同じ客として高齢者が熱弁して若者が色々と学べたのですが、今の高齢者はサービスを受ける側に徹しています。また、そういう風に高齢者の役割がバッチリ決まっています。
カフェの存在する意義
著者はカフェには2つの存在意義がある、あるいはカフェを使う客には2通りいると書いています。「楽しさ」を求める客と「意味」を求める客です。
前者は楽しければそこに留まり続けるけれども、後者はそこに行く意味を失えば、場から遠ざかっていく。(同書157頁)
著者は「 意味」を見出し続けることのできる場としてカフェを作りだしていきたいと考えています。そのプロジェクト事例が10点ほど本書後半に記されていますが、ややイベント感が強い点に引いてしまいます。地域活性化は都心部との関係で左右される類ですから、カフェを誘致するという地域内だけをみた発案では実現しようがありません。
私にとっては学生たちとカフェに行くこと自体がイベントになっていて、カフェには楽しみがなくても意味がなくても良いという面があります。他方で学生たちに喜んでもらうには美味しいカフェが大切ともいえます。難しいですね…。
現在のカフェはディスコミュニケーション
著者は現在のカフェを次のように捉えています。
お気に入りのカフェに一人で行って、マスターとしやべるでもなく、買ってきたレコードのライナーノーツを読み、読書して、コーヒーの味を楽しみ、お店の雰囲気を楽しんで帰る……。今流行っているカフェって、ある意味ほっといて欲しい人たちのディスコミュニケーション空間として機能していますよね。(同書179頁)
ディスコミュニケーション化したカフェという捉え方に半ば同感します。逆にコミュニケーションが必ずカフェに必要だという風にも思いません。今のカフェで問題なのは、むしろコミュニケーションかディスコミュニケーションの二者択一を強く迫られていることにあるのではないでしょうか。
コミュニケーションとディスコミュニケーションが交錯すれば良い
ある客が特定のカフェに行っても、ある日にマスターや客と話しある日には話さないということがあっても良いのです。そういう選択肢が1990年代まではレンジでチンの喫茶店にもちゃんとしたカフェにもあった気がします。
この点を著者も感じてはいるようです。
オルタナティブな価値観を育むことができる場所(同書180頁)
をカフェの存在意義だと考え、
経済合理性を過度に追求するモチベーションからは生み出されにくくなってきています。(同)
とも述べています。ただ前半の経験談と後半の経験談では立場が違うのがネックになって、本書全体としては何をやりたいのかなぁという風に感じます。
印象に残った点
この本で面白かったのはやはり前半のカフェ経験です。著者は大学を卒業して就職してから、大阪府堺市のカフェに入り浸っていたそうです。そのカフェでロックのレッド・ツェッペリンを客から勧められたら手にメモして帰ったという話が書かれています。そのような経験は私もたくさんあって、懐かしさと共感を持ちました。
カフェの生命力
客同士で教えあう・勧めあうのがカフェの生命力かなぁと思いました。店長だけでは不特定多数の客を相手にトークの限界がありますから、客同士が交錯してトーク幅が広がることでカフェは盛況するのだと思います。ただし、繰り返しますがディスコミュニケーションも必要です…。
私自身は楽しさと意味の両方を兼ね備えるカフェがほしいと思います。他方で、知り合いとしゃべることの楽しさと意味が満たされれば、カフェ(やレストラン)に楽しさも意味も必要ありません。少々の美味があればよい…(堂々巡り)。
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