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中国と私

西洋とはどこですか? ヨーロッパとはどこですか?

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私が自分のアイデンティティを考えるとき、よく軸とするのが中国以外にヨーロッパとアメリカがあります。この記事では一つの映画からヨーロッパのアイデンティティを考えます。
フランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダール「新ドイツ零年」はベルリンの壁が取り払われた数年後を描いた作品です。東ドイツに潜伏していた西ドイツの元スパイが初老に差し掛かったとき、ふとしたきっかけで旅に出ます。

西洋とはどこですか?

主人公の元スパイは映画の随所で通りすがりの人々をつかまえては、何度も同じ質問を投げかけます。「西洋とはどこですか」。
62分の映画の間、誰一人として彼に西洋の場所を教えた者はいません。みんなが西欧を忘れ、同時に東欧を忘れようとしたとき、初老の彼だけが職場の東欧を忘れられなかったのです。
西欧と東欧が消滅し、一緒くたに西洋と呼ばれるようになった20世紀末、どこに西洋があるのか彼に理解できるはずがなかったのです。

「新ドイツ零年」とは

元スパイだった主人公が迷う東西ドイツ消滅後の統一ドイツ。主人公のレミー・コーションはカサブランカ会議(1943年)以後忘れられた最後のスパイとして生きてきました。1990年にベルリンの壁が取り払われドイツ統一が実現した後、仕事を失い一人旅へ出ます。

旅の途中、彼に焦点を当てる形でドイツの有名な街並みや文化人が多く引用されていきます。主人公は実在する人物として描かれているようには見えず、単なる人物史に留まる映画ではありません。

『新ドイツ零年』にみるさまざまな東西

本作には様々な東西が出てきます。東ベルリン・西ベルリン、東ドイツ・西ドイツ、東側諸国・西側諸国、東洋・西洋…。

街や政府の東西、国家の東西が揺れ、主人公のレミー・コーションは個人の東西の揺れと折り合いを付けようとします。でも、周囲の人間と打ち溶けあうことはありません。

元司令部が書類を無くしてしまい、仕事も見つかりません。

ベルリンの壁が崩壊してから、大衆は新ドイツに喚起し、はっきりした物質的な力となって自由主義は共産主義を打倒したと確信されました。

レミーは旅先のホテルのメイドに尋ねます。「君も自由を選んだのかね」。彼女から「労働は自由にする」と返事されて、レミーは一人になって聖書をめくりながら「下衆どもめ」と吐露します。

ベルリンの壁が崩壊したことは「理念が大衆に浸透する時、それは物質的な力になる」とかつてカール・マルクスの言ったとおりの事態として、レミーの頭に焼き付きます。てすから、レミーにはベルリンの壁の崩壊がマルクスの勝利と映ります。

世間と主人公レミーとの現実理解には大きな壁があります。この壁は厚いでしょうか、高いでしょうか、長いでしょうか。ひび割れた壁のように綺麗に分断されたタマラ・ド・レンピッカ「緑の少女」のカードがくっつけられても、繋ぎ目は残り、状況は変わりません。

激動の後に過去は意味をもたない

この作品は、数々の名言が散りばめられていますが、とてつもなく単調です。あるいは、フランスの映画監督がドイツ諸文化を引用するという珍しい姿勢が貫かれますので、見ている私たちは引用を知らないと退屈です。

しかし、この映画が単調で退屈な理由は、主人公のレミー・コーションがたどった歴史が自分史ではなく20世紀現代史だったことにあります。激動の後に過去は意味をもたないのです。その分、この作品からは映像美に触発されることが多いです。

主人公のレミー・コーションのように、激動を理解はできても納得のできないことが人生にはあるでしょう。激動後の自己闘争は大変なものです。映画で述べられるように子供と老人は成長しませんが、大人は成長します。十分に老人の部類に入るはずのレミーがいまだ大人であることを歴史や社会から強いられた点が、何とも重々しいのです。

レミーの愛と孤独

ゴダールは、政治経済や哲学を語る一方で必ず愛を語ります。しかし、この作品では、自分を忘れられず自分を愛せない主人公レミーに対して、愛を与えなかったようです。せめて彼が、内戦しか知らず湾岸でしか戦争を経験したことのないアメリカ合衆国で老後を送ったなら、もう少し愛に踏み込めたかもしれません。

この映画に映される孤独は孤立した孤独です。これに対し、ゴダールの「彼女について私が知っている二、三の事柄」は群衆の中の孤独です。この両作品を孤独から比較するのは一考に値します。

ヨーロッパの自信喪失

日本にとって父であるはずのヨーロッパも、故郷探しには苦労をするようです。東西の半分に分裂したり、統合したり…。
ヨーロッパは産業革命に邁進して以来、ずっと故郷を喪失してきましたが、自信喪失を経験した最初の出来事は第1次世界大戦でしょう。紀元後1800年以上が経って、ようやく、ヨーロッパは地球上のほぼ全域を手中に収め世界史の主役(cap)になりました。主役の自負が、ユーラシア大陸西端の単なる岬(cape)という自信喪失へ変わるには、20世紀前半のたった50年間で十分でした。都市や首都、資本(capital)に代表されるように「cap」という接頭語に注目すると、ヨーロッパの歴史が見えてきます。この点はジャック・デリダの功績です。
ヨーロッパの築き上げた文明が自己破壊的なものだと、ポール・ヴァレリーは1919年にきました。また、マルティン・ハイデガーはなぜドイツだけ酷い仕打ちを受けたのだと1930年代に自虐的に居直りました。二人の受け止め方をみると、知識人によって色々だったかもしれません。しかし、ヨーロッパという自信や自負に満たされていた点は同じ穴のムジナです。

西洋やヨーロッパのアイデンティティを問う虚しさ

映画に戻ります。この映画は西洋のもつアイデンティティの欠落を示しています。訳語の問題ですが、西洋はヨーロッパと置き換えても良いでしょう。
「新ドイツ零年」から約30年が経った今、西洋やヨーロッパのアイデンティティを問うこと自体も、古臭くなってきました。西洋といえば東洋がくっついてきますし、ヨーロッパといえばアジアがくっついてきます。アメリカも中国も登場しない西洋やヨーロッパのアイデンティティは、しばらく問われることはないでしょう。

ヨーロッパの縮小

コロナ禍にあって、ユーロ・ニュースを集中的に見たことがありました。2020年5月・6月頃です。この番組はヨーロッパやロシアから現地ニュースを流しています。どのニュースも暗く、取材規模の小さいものでした。寂しい雰囲気は、コロナ禍という時節柄だけではない気がして、寂しさの理由を何日もずっと考えました。
アメリカ暴動のニュースでわかったのですが、ユーロ・ニュースはアメリカをほとんど取り上げず、一帯一路政策を進める中国も取り上げてきませんでした。かつてコロニーを量産したヨーロッパが、今世紀にコロニー化されることを怯えているような、逃げ腰の取材だなと感じました。ユーロのニュースだから当然かもしれませんが、コロニーも経済もなく、ユーロという微かな実態にしがみついているように見えたのが、寂しかったです。ヨーロッパが縮小した印象でした。

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